「臨床・薬学研究に貢献する医療ビッグデータ」#5 武蔵野大学薬学部 臨床薬学センター 益戸智香子講師

2025.07.10
2025.07.10
服薬アドヒアランス不良による心血管疾患発症リスク増大を明らかに

GLP-1受容体作動薬のセマグルチドは、2型糖尿病(T2D)患者の心血管疾患(CVD)発症リスクを低下させることが分かっている。その中で、実臨床において服薬アドヒアランス(以下、アドヒアランス)不良がCVD発症に及ぼす影響については不明な点が多かった。
武蔵野大学薬学部臨床薬学センター益戸智香子講師らの共同研究グループは、日本のT2D患者におけるセマグルチドのアドヒアランスとCVD発症リスクとの関連を検討するため、後ろ向き観察研究を実施した。この研究ではメディカル・データ・ビジョンの持つ国内最大規模の診療データベースが採用された。2008年から2022年にセマグルチドを処方された15歳以上のT2D患者17,663人を解析対象とした。解析の結果、アドヒアランス不良群のCVD発症リスクは良好群の1.77倍であったことを、2025年3月13日付で「Cureus」に発表した。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/40225492
アドヒアランスの評価には、1年間の観察期間に対する実際の処方日数の割合であるproportion of days covered(PDC)を用いて、PDC 0.8(80%)以上をアドヒアランス良好、0.8未満をアドヒアランス不良と定義。CVDの中で動脈硬化性疾患に着目し、心不全を除外した狭心症、非致死性心筋梗塞、非致死性脳卒中を含む複合イベントを評価項目とした。
解析対象は平均年齢が61.26歳、平均BMIが29.08kg/m²で、男性が59.41%、アドヒアランス良好群が91.63%を占めた。治療の内訳は、セマグルチド単剤療法が8.63%、2剤併用療法が25.08%、3剤併用療法が33.81%、4剤以上が32.48%で、主な併用薬はSGLT2阻害薬、ビグアナイド薬、インスリンだった。セマグルチドは経口製剤が62.15%、皮下注射製剤が37.85%で、経口製剤は皮下注射製剤と比べてアドヒアランスが高かった。
解析の結果、CVD発症リスクはアドヒアランス良好群と比べてアドヒアランス不良群で1.77倍と有意に高かった。セマグルチド単剤療法に限定した解析では、有意差はないもののアドヒアランス良好群と比べて不良群でCVD発症リスクが1.56倍と高い傾向にあった。
対象の背景別に見ると、CVD発症リスクは男性と比べて女性が0.37倍、ビグアナイド薬非併用と比べて併用例で0.53倍と有意に低かった。一方、セマグルチドの剤形間で有意差はなかった。アドヒアランス良好群と不良群に分けた検討でも、両群で同様の傾向が認められた。
今回の解析で観察されたCVDイベントの65.71%が狭心症だったため、狭心症は男性に多いという傾向を反映している可能性が考えられる。さらに剤形間で有意差がないのは、経口、皮下注射製剤ともPDCが90%以上と高いことに起因する可能性があり、いずれでもアドヒアランス向上が可能であることを示唆している。この研究成果から、剤形を問わずセマグルチドのアドヒアランスを良好に保つことは、T2D患者のCVD発症リスクを低下させ、臨床転帰の改善につながることが期待される。
益戸講師のインタビューは以下の通り。
私は病院薬剤師として10年以上勤務したのち、2016年に本学の教員として着任しました。病院では糖尿病療養指導士として、糖尿病患者の指導に当たっていましたが、皮下注射製剤の使用方法が患者にとって難しいなど、指導には苦心しました。
薬剤師の重要な役割の一つとして、患者一人ひとりに最適な薬物治療を提案し提供するということが挙げられます。しかし、薬がきちんと体内に入らなければ十分に効果を発揮できないため、アドヒアランスは患者の予後を左右する要因と考えられます。
今回注目したセマグルチドは、強い血糖値降下作用と体重減少作用があり、CVDに対する効果も明らかになってきています。また、GLP-1受容体作動薬では唯一、2020年に経口製剤が承認されました。セマグルチド経口製剤は非侵襲的である一方、毎日起床時に空腹状態で約120ml以下の水で服用しなければならず、服用後少なくとも30分間は飲食や他の薬の服用を避ける必要があるなど多くの制限があります。一方で皮下注射製剤は侵襲的ですが、服用のタイミングや他剤服用の制限はなく、また週に1回投与すればいいという利点があります。それぞれの特徴をきちんと理解した上で、患者の背景から総合的に判断し剤形を決定する必要があります。
アドヒアランスが及ぼす影響を解析
経口製剤と皮下注射製剤ではアドヒアランスがどれぐらい異なるのか、またCVD発症リスクがどのように変わるのかを明らかにしたいと思い、医療ビッグデータを用いた研究を計画しました。大規模なランダム化比較試験を実施するためには膨大な労力と費用、また時間がかかります。一方で医療ビッグデータを用いた研究では、実臨床をリアルタイムに反映した膨大なデータから短期間で精度の高い解析結果を導き出すことができます。また、大規模な臨床試験の多くはスケジュール通りに服薬した患者を対象とすることが多く、アドヒアランス不良患者は脱落例として扱われてしまうため予後が十分に解明されていませんでした。今回の研究のように目的に沿って柔軟に分析ができるという点も医療ビッグデータを用いた研究のメリットだと感じています。
2025年3月に開催された日本薬学会第145年会で研究の途中経過を発表したところ、医療ビッグデータを用いた研究をしている大学の先生方やこれから研究を始めようとしている大学院生、病院薬剤師の先生方など多くの方から興味を持っていただきました。また、2025年6月には第12回日本アプライド・セラピューティクス学会学術大会/第9回日本臨床薬理学会関東・甲信越地方会でも発表しました。
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臨床現場での疑問を研究テーマに
私が本格的に研究を始めたのは本学に着任してからで、医療ビッグデータを用いた研究は今回が初めてでした。私はこれまで、臨床現場で実際に疑問に感じたことを研究テーマにし、その成果を現場に還元したいという思いで研究に取り組んできました。医療ビッグデータを活用することで希少疾患などの、大規模な臨床試験の実施が困難な領域においても研究が可能となり、社会に貢献できると強く感じています。今後は、T2D患者を対象とした別の研究も予定しており、学生の卒業研究にも医療ビッグデータを活用していきたいと考えています。
【益戸講師のご略歴】
2001年 明治薬科大学薬学部製薬学科卒業
2004年 明治薬科大学大学院薬学研究科臨床薬学専攻修士課程修了
同 帝京大学医学部附属病院薬剤部
2007年 せんぽ東京高輪病院薬剤部
2014年 JR東京総合病院薬剤部
2016年 武蔵野大学薬学部薬学科助教
2019年 武蔵野大学薬学部薬学科講師
2023年 武蔵野大学大学院薬科学研究科薬科学専攻博士後期課程修了、博士(薬科学)取得