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製薬業界のデジタル化最前線|研究職とマーケターが共に描くイノベーションの未来とは? #110

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 医薬品の研究開発から販売促進、患者との関係構築まで、製薬業界においてもあらゆる領域で、デジタルトランスフォーメーション(以下DX)が求められる時代が到来しています。
AI創薬、リモートMR、リアルワールドデータ(RWD)の活用といった取り組みが進む一方で、古いシステムや組織の壁、デジタル人材の不足など、現場ではさまざまな課題も浮き彫りになっています。

 本記事では、製薬業界の研究職やマーケティング担当者が押さえておくべきDXの基礎、活用事例、部門連携の可能性、そして乗り越えるべき課題について、詳しく解説します。

製薬業界におけるDXとは? 研究職・マーケター共通で知るべき基礎

 まずは製薬業界におけるDXについて、研究職やマーケターに共通するDXの定義や必要性について説明します。

デジタル化:DXの定義と本質

 経済産業省により、2022年9月に公表されたデジタルガバナンス・コード2.0によると、DXは以下のように定義付けされています。

「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズをもとに、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること」

 DXは単なるITツールの導入や業務の効率化ではなく、データやデジタル技術も用いた変革により、競争優位性を確立することだと定義されました。
たとえば、AIやIoT、ビッグデータ、ブロックチェーンなどの技術を活用し、従来とは異なる形で顧客体験を提供したり、新たな収益モデルを創出したりすることが例として挙げられます。

 単なるデジタル化の場合は既存の業務を効率化するなどの手段の変化にとどまるのに対し、DXは目的自体を変えることから質的変化を伴います。
製薬業界では、AIを用いた創薬に関する情報収集や文書作成、デジタルツインによる臨床試験設計のサポート、ウェアラブルデバイスによるリアルタイムの患者データ収集など、業務のあり方そのものが変わりつつあります。

なぜ今、製薬業界でDXが不可欠なのか?

 背景には、製薬業界特有の「長期間・高コスト・低成功率」という研究開発の課題があります。

 一つの医薬品が市場に出るために、平均9〜16年に及ぶ開発期間、約1/25,000という成功確率、3,000億円規模の投資が求められます。
創薬は、健康医療データやAIの活用による効率化が特に必要な領域といえるでしょう。
経済的な観点からは、業界を取り巻く規制・市場環境の変化も無視できません。

 たとえば、薬価の毎年改定や後発医薬品の普及によって利益構造が変化することが挙げられます。
このような外部規制の影響があっても、対応できるほどの体力が製薬企業に求められており、そのための新たな価値創出や既存のコスト削減に、DXがその糸口となる可能性があります。

 また、コロナ禍によりMR活動が制限された経験から、医師とのデジタルなコミュニケーションにもDXが関連します。
MRによる対面の情報提供が処方に関係することや、対面でのコミュニケーションを求める医師も存在することから一般営業の需要は残りますが、学術情報の提供や安全性情報の収集など一部の業務からDX化しても問題がないことが考えられます。

 製薬業界に限らず、政府・行政の側でも製薬企業のDX推進に対する制度整備やガイドライン策定が進行中です。
DXが実現できなければITシステムの老朽化による国際競争力の低下により、年間最大12兆円の損失につながると考えられている「2025年の崖」と呼ばれる問題もあるため、これを回避するためにも、企業はDXを加速させることが必要と考えられています。

【研究開発領域におけるDX活用例】研究職が押さえるべき変化

 これまで個人の経験や考えに頼っていた探索プロセスや、手作業に追われていたデータ管理業務が、今ではデジタル技術によって効率化される時代です。
研究職においても、DXの潮流を正しく理解し、自らの業務にどう活かすかを考えることが求められています。以下では、代表的な2つのDX活用事例を紹介します。

AI創薬と機械学習による探索プロセスの革新

 近年の創薬初期段階においては、疾患メカニズムの解析やターゲット候補の抽出、リード化合物のデザインといった分子探索プロセスにおいて、AIによる情報の網羅性が創薬に必要な時間を大きく短縮しています。

 たとえば、リード候補化合物の特定に通常2~3年かかるところを1年半に短縮した事例も報告されています。ほかにも、通常であれば1年半かかる候補化合物の生成からリード化合物への絞り込みを21日に短縮した事例や、通常4年半かかっていた探索研究をAIにより1年未満に短縮した事例もあります。
AIとクラウドコンピューティングを組み合わせることで、数億個の化合物を対象にした計算が数週間で実現する事例もあり、コストと時間の大幅な削減が可能となりました。
これにより、探索から前臨床に至るまでのタイムラインが年単位で短縮され、医薬品の創出スピードが加速しています。

ELN(電子実験ノート)とLIMSの導入による業務効率化

 研究現場におけるもう一つのDXの鍵は、情報管理の効率化です。

 現在では、ELN(Electronic Lab Notebook:電子実験ノート)やLIMS(Laboratory Information Management System)の導入が進み、以前よりも実験記録や試薬管理、サンプル情報、分析データなど、情報の管理がしやすい環境になりつつあります。

従来の紙ベースの実験ノートは情報の検索性や再利用性に課題がありましたが、ELNにより、研究者同士の知見共有や過去の実験結果の再利用が容易になり、実験の重複を減らすことや、ナレッジの蓄積が明瞭になるでしょう。

LIMSにおいては、資料管理や品質管理プロセスの標準化をサポートするため、質の高いデータ収集やGLP(Good Laboratory Practice)の遵守にも貢献します。

研究データのDXは、データの品質やデータの応用が競争優位性に関係する製薬企業において、不可欠な存在だといえるでしょう。

データ駆動型の臨床試験(eClinical・VCT)と患者中心設計

 臨床開発においても、試験設計から実施、解析まで、あらゆる工程にDXが革新をもたらしています。

DXが進むことで、eClinicalではEDC(Electronic Data Capture:電子的臨床検査情報収集)やeCRF(Electronic Case Report Form:電子症例報告書)、リモートモニタリングなどを活用し、業務の効率化とデータの質の向上が実現可能です。
VCT(Virtual Clinical Trial / Decentralized Clinical Trial)では、患者の自宅や地域拠点で試験が行える仕組みで、被験者が定期的な来院をせずとも参加できることから、組み入れのハードルを下げます。

 以前は医師主導の医療でしたが、ウェアラブルや生活ログなどから得られるデジタルバイオマーカーを活用した患者視点のデータ収集が可能になり、同時にそれらへのニーズが高まってきたことから、患者中心の医療へのパラダイムシフトが進んでいます。

【マーケティング領域におけるDX活用例】製薬マーケターが押さえるべき変化

 近年は医師との接点が多様化し、対面の営業だけでなく、デジタルの活用も視野に入れるべき時代となりました。

ここでは、代表的な3つのDX施策を紹介します。

CRM/SFAによる顧客接点のデジタル管理

 CRM(Customer Relationship Management:顧客関係管理)は顧客との関係性を育てるものであり、SFA(Sales Force Automation:営業支援システム)は売上やレポート、スケジュールなどMRの日々の活動を記録・分析するものです。

CRM/SFAに関係するツールもデジタル化が進み、医師・薬剤師ごとの対応履歴、興味関心、過去の処方動向や接触タイミングなどが可視化されやすくなり、MRやマーケターが戦略的なアプローチを行えるようになりました。
たとえば、ある医師が関心を示している疾患領域や参加したセミナー情報に基づいて、次回の情報提供内容をパーソナライズすることができます。
売上に関する業務のボトルネックを発見することや行動の最適化に関与するため、DXにより効率化が加速することや、MR間での情報共有や教育にも良い影響があると期待されます。

デジタルMR(Remote MR)とオンラインセミナーで販売促進

 コロナ禍を契機に急拡大したのが、リモート形式による情報提供です。
MRはビデオ通話やチャットツールを通じて医師と非対面で情報を共有できるため、対応の質は維持したまま、移動の負担や時間的ロスの削減が可能な職種です。

 オンラインセミナー(ウェビナー)は、時間や場所の制約を受けにくく、医師が参加するハードルも低いため、従来の集合型の講演会に代わって、医師との接点として有用な手段です。
一方、医師のリテラシーやニーズ、MR活動が処方に影響することなど、対面での一般営業の需要はまだあります。
デジタルと対面によるハイブリッドな営業モデルが今後の主流になると考えられます。

医療従事者向けパーソナライズ戦略とカスタマージャーニー設計

 上述の通り、DXが進む昨今であっても、医師個人のニーズに目を向けると、対面の営業を望む医師の声が一定数存在します。
また、製薬会社の各社からダイレクトメールなどが大量に医師のメールアドレスに送られることから、重要な知らせを見逃すといったDXによる弊害もあります。
一度に多数に届けやすくなった分、情報の伝達が難しくもなる時代であることから、むしろ情報の受け手の状況を想定したコミュニケーションの取り方を考える必要があるといえるでしょう。

そのため、オンライン専任MRやアプリ、プラットフォーム、コンテンツ配信を通じて医師に応じたコミュニケーションレベルを上げていく取り組みが各社で行われています。

DXで期待できる研究とマーケティングの連携体制

 製薬業界では、研究とマーケティングが連携することで、医療ニーズに即した製品開発や適切な市場投入が可能となります。

DXは部門間の連携を加速させ、イノベーションの創出を促進する鍵になると考えられています。

部署の垣根を超えた「R&D to Market」の実現

 DXにより部門間の連携が取りやすくなることから、R&D部門とマーケティング部門が同じ情報に基づいて議論できる「R&D to Market」の体制が現実的になります。

 AIの情報の網羅性を活用したターゲット疾患の選定や臨床試験設計により、以前よりも差別化しやすいマーケティングの視点で創薬に取り組むことが可能です。
研究チームも以前よりマーケットインの視点を持ちやすく、臨床現場で求められる実用的な医薬品像を具体的に理解しやすくなります。

RWDを活かし共同で意思決定

 疾患の実態、治療パターン、副作用発現状況などを日常診療で集められるRWDで把握することで、仮説の立案から市場分析、販促戦略まで、創薬のあらゆる場面で判断の助けになります。
 たとえば、新薬開発の初期段階でRWDを用いると「どのような患者群に最も効果があるのか」「どのような患者にアンメットメディカルニーズがあるのか」の見極めになります。

 製造販売承認の後においても、処方実態やアウトカムデータなどの市販後のデータが研究側にフィードバックとして活用されるため、次の開発を促すサイクルが生まれるのです。
以前よりもデータを共通言語にしやすく、DXにより部門間の連携が強化されることが期待されます。

DX推進の課題

 DXは医薬品の発展において理想的な未来を描く一方、現実的なハードルも多く存在します。
特に製薬会社では規制・組織体制・技術的制約といった多層的な課題が絡んでおり、慎重な対応が求められることからDXが進まない状況につながるといえるでしょう。

レガシーシステムの壁とデータ統合の難しさ

 多くの製薬企業では、長年使われてきた老朽化したITシステム(レガシーシステム)がDXの足かせになっています。
これらのシステムは複雑化していたり、システムの全貌や意義が不明になっていたりと、ブラックボックス化していることが多く、新しいツールやクラウド基盤と簡単に統合できないケースが少なくありません。
また、以前の形式のデータ管理では互換性がないことから、研究・開発・営業など部門ごとにデータが分断されていることもDXを妨げる要因です。

デジタルリテラシーと社内教育の課題

 特に製薬業界では、研究者やMRなど専門職が多く、全員が同じレベルでデジタル技術を理解・活用できるとは限りません。
社内には「ツールの使い方に不安がある」「DXが何をもたらすのか分からない」といった声も存在し、マインドセットとスキルの両面で、教育支援をしていくことも課題の一つです。

 また、DXに伴う業務プロセスの変更が、現場に混乱や抵抗を生むケースもあります。
システムの構造上の問題から情報漏洩につながるケースもあり、効率化など新たな利益を得るという観点だけでなく、リスク回避の観点からも教育は必要です。

個人情報保護・セキュリティ体制と研究・マーケティング活用の両立

 製薬業界では、患者情報や医療データなど機密度の高い個人情報を扱うため、DXにおいてプライバシー保護と情報セキュリティの確保が不可欠です。
健康医療データの利活用ができれば、大規模な医療データプラットフォームがつくられ、創薬や臨床開発の環境が整う期待感があります。

 一方で、データ活用にあたり医療機関が患者に同意を得る業務が発生することや、匿名化により利用の幅に制限が生じる可能性があるほか、個人情報保護制度の課題など、超えるべき壁はまだ存在します。
究極の個人情報と呼ばれるゲノムのデータなども取り扱う以上、守りを確保したうえで攻めの姿勢に出る必要があるといえるでしょう。

まとめ

 製薬業界におけるDXは、もはや一部の先進企業だけの話ではなく、競争優位性に関係することから、生き残りの条件になるといっても過言ではありません。
DXによって製薬業界がより魅力的な業界となる可能性が考えられますが、実現にはレガシーシステムの刷新、全社員のデジタルリテラシー向上、個人情報保護と利活用のバランスといった課題を一つずつ乗り越える必要があります。

 研究・開発・営業、どの段階においても製薬企業はDXによる変革を受ける分野であるため、あらゆる職種・立場にいる人が、DXを他人事ではなく“自社の武器”として捉え、未来の製薬業界をつくっていく姿勢が問われるでしょう。


【監修者】岡本妃香里

2014年に薬学部薬学科を卒業し、薬剤師の資格を取得。大手ドラッグストアに就職し、調剤やOTC販売を経験する。2018年にライター活動を開始。現在は医薬品や化粧品、健康食品、美容医療など健康と美に関する正しい情報を発信中。医療ライターとしてさまざまなジャンルの記事執筆している。

【執筆者】吉村友希

医薬品開発職を経て医療ライターに転身。疾患・DX/AI・医療広告・薬機法など、医療と健康に特化した記事制作を担当。英語論文を活用した執筆やSEO対策も可能。YMAA認証取得。

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